伝わる文章のルール36
村上春樹「遠い太鼓」を読んで考えたこと。
今回の話は、ビジネス的なヒントや売れる広告のノウハウの類いではありません。とりわけ、なんらかの教訓が込められているわけでも、ありません。ただの個人的な「つぶやき」です。それでも良い方は、御覧下さい。
いつもそうだ。いつも同じだ。小説を書きながら、僕は死にたくない・死にたくない・死にたくないと思いつづけている。(中略)この小説を完成しないまま途中で放り出して死んでしまうことを思うと、僕は涙が出るくらい悔しい。【遠い太鼓 講談社 村上春樹 より 一部抜粋】
学生の頃、初めてこの文章を読んだ時、小説を書くということは、なんと孤独な作業なのだろうと思った。死にたくない、と思いながら「何かを為す」ことなんて、考えただけでも恐ろしくも厳しいことだ。自分には絶対に立ち入れない領域だ、と鮮烈に感じた事を覚えている。
30代の半ばを過ぎた今、この文章を読んでみると、なんとなくだけど、「あ、わかるな・・・」と共感している自分がいる。もちろん、村上春樹氏が抱える「完成させなければ」と、いうものと自分が抱えている「完成したいもの」とでは、天と地ほどもの差があることは、よくわかる。それでもやはり、ああ、わかるなぁ、と感じている自分がいる。
■成し遂げられないまま、終わるもの
10代、20代の頃にはわからなかったが、年齢を重ねていくうちに体感速度(のようなもの)が急速に加速していく事を知った。10代の頃の「50分授業」は、それこそ永遠にも思えたけれど、30代の「50分」なんて、あっという間に感じる。気が付いたら、あれ? 今日ももうこんな時間だ、最近、一週間が早く感じるな…そんなことが、多くなった。
60代、70代の人に聞かれたら、バカな、まだまだ青いよ、焦りは禁物だよ、と言われるかもしれないけど、人生って何かを為すには、わりと短いような気がする。生き急いでいる訳ではないけど、やっぱり前を向いて、飛び込み続けなければ到底間に合わない。フラフラになって一人で事務所の床に倒れ込むくらいで、ちょうどいいんじゃないか?大丈夫。僕のような、もともと不精な人間は、放っておいても適度に休むのだ。そのくらいで、ちょうどいいんじゃないか?
そして湯が沸くのを待ちながら僕はこう祈る。「お願いだから、僕をもう少し生かしておいて下さい。僕にはもう少し時間が必要なのです」と。【遠い太鼓 講談社 村上春樹 より 一部抜粋】
人生は短く、伝わる文章を巡る冒険はいまだゴールすら見えない。今自分達が進んでいる道は、まだ誰も歩いたことがない道だから地図は存在しない。不安の方が大きい。迷ったり立ち止まったりしているうちに、時間だけ過ぎ去っていく。若い頃の2倍くらいの体感速度で時間が過ぎていく。本当に、このようなことをしていて大丈夫なのか? と自問自答する。
それでも、その先に何かがあると感じているなら行ってみよう。このまま死ぬのが悔しいならできることを、できるかぎり努力して表現していこう。先日、誕生日を過ぎて、ひとつ歳をとった瞬間に、そんなことを考えました。
伝わる文章講座 佐藤 隆弘 拝
リニューアルの追記
この文章を追記している40代の自分と、上の文章を書いている30代のころの自分とでは「何かを表現すること」と「時間」に関する考え方は、また違ったものになっていることを実感する。おそらくその違いは、今自分が表現しているものにも少なからず影響を与えていることだろう。もちろん、それは、どちらが良い悪いではなく「その年齢の時にしか書けないものがある」という理由のひとつにもなるのではないかと思う。思考は言葉で行われ、言葉は思考によって変化するからだ。